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re:宗教「隣人を自分のように愛するように心がけています」
そういわれたら、私は、
「美しい理念ですね、私にはできませんが」
と、応えるだろう。
だが。
「隣人を自分のように愛せ」
命令形で告げれば、それは宗教である。
「カエサルのものはカエサルに返せ、神の物は神に返せ」
「WEBのものはWEBに返せ、オープンソースの物はオープンソースに返せ」
……世俗の法が所有を許すものを、手放せ、と、命じるのは、宗教である。
クリエィティブコモンズ、という概念がある。
著作権によって自らの作品を「専有する」者たちを尻目に、彼らは自作を「使用可能」と宣言する。共有の概念がデフォルトだからではない。現行著作権を認めたうえで、自らの意志をもって、自作の使用を世界に向けて許諾するのだ。彼らは、他者にはそれを強いない。
「WEBは自由だ。だから私は私の作品を自由に使わせているし、あなたもあなたの作品を自由に使わせるべきだ」
「WEBは自由だ。私は私の自由を自分に使わせるし、あなたが自分の作品を金で売ろうが用途を制限しようがあなたの自由だ」
どちらが、本物の自由なのだろう。
価値ある作品を他者の使用に供する方々が得るのは、その恩恵にあずかる者の尊敬の意だけだろう。
私が、考え方の基本の乖離を悟ってもなお、あの方たちへの尊敬の意を失わずにいるように。
◇ ◇ ◇
上の文章を書きかけて。公開を逡巡していた。
そんなときに、この文章に出会った。これはおそらく、この話題に関して書かれたものではないのだけど。
傍から見たらどっちもどっち、(良くない意味での)宗教やぞと。
デフラグびより「科学と宗教と」 ああ、そうだ。私の信じるこれも、また宗教だ。開き直りではなく、ただ粛然とそう思う。
作り手たちよ。
貴方がたはシステムに奉仕するために在るのではない。
貴方の作品のためにシステムを利用せよ。
このテーゼが私の祈り。このブログ「ブログで小説」の立ち位置だ。
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貫頭衣 テンプレートは機能さえあればいいという方は、衣服も保温と裸身を隠す機能だけあればいいに違いない。貫頭衣でも着て暮らしていらっしゃるのだろう。
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箱と指輪 匠の技を傾け、精緻に作られた宝石箱におさめられた、粘土細工の指輪。
キャラメルの箱にはいった、ダイヤとプラチナ。
箱だから指輪だから、どちらが上と決められるのです?
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ヒトゴロシ 人を殺してはいけない。
殺人罪があるから、人を殺してはいけないのではない。人を殺してはいけないという社会のコンセンサスがあり、それを社会の仕組みとして支えるために殺人罪がある。
他人の作品を盗んではならない。
著作権法があるから、盗作してはいけないのではない。盗作してはいけないという社会のコンセンサスがあり、それを支えるために著作権法がある。
小説家も画家も、先人の作品を学び、自らの作品の礎とする。だからといって著作権法の庇護をはずれることはない。
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花盗人は罪にならない? 日々丹精して咲かせた花の一鉢を、人に見てもらいたいと思う。
道行く人の目を愉しませたいと願い、その鉢を、道ゆく人の目にとまる庭先へ運ぶ。
それが本当に盗まれて困るものなら、たしかに、家の中に置いておくべきであろう。それは、「庭先へ置くほうが悪い」からではない。「人に見せたいという思い」よりも「盗まれては困る」要素のほうが大きいからにすぎない。
花が盗られても、その先で根づき咲き開けばいいという人もいる。だがやはり盗まれたことを嘆く人もあろう。嘆く人の背に向けるべき言葉は、
「盗まれるが当たり前。いまさら嘆くは覚悟が足りない。盗まれるほうが悪い」
ではないだろう。盗みは盗み、盗むほうが悪い。
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《FC2》はネ申のごとく正しい。と仮定してみるテスツ FC2ID規約に
禁止事項
1項 公序良俗に反する行為及び表現
他のメンバー又は第三者に対して、卑猥な映像・音声・文字などの情報の公開を禁じます。また、同様に青少年に有害と思われるヌード又はポルノ画像などの掲載も禁じます。
とある。一方で、アダルトブログの訪問履歴やTB、アダルトブログからの共有テンプレート供出は制限されている。
両者を勘案するに、一般ブログとアダルトブログが能く分離されている限り、現在アダルトカテゴリーにあるコンテンツの全ては、卑猥でも有害でもないという推論が導かれる。──テンプレートユーザーだけがこの「分離原則」の例外でありえるだろうか。
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砂 私は昔、生物学系の研究者だった。1報の論文を書く。それは科学という名の砂浜に、一粒の砂を加えるに似た行為だ。それを知りつつ、一粒の砂をそこに置く。
慣習として、学術論文の引用は、それ以外の文章の引用よりずっと自由だ。レビュー誌を見よ。ほとんどが知見論文の切り張りのようなものだ。それでも、許される。なぜなら科学とは、科学者とは、論文とは、そういうものだからだ。
共有知への参加。科学への参加。その矜持を私は知っている。
だがこれは著作権法といささかも衝突しない。「黙示の許諾」の一語で、整合性は保たれる。
想像するに、ネット上で公開されるプログラムやスクリプトも、学術論文に一脈通じるところがあるように思われる。先人のソースを参考に、次のプログラムを(あるいはスクリプトを)書く。ネットの砂浜に加えられる砂。しかし、こちらの場合、慣習として、ネットでみつけた短いプログラムモジュールを組み込んだプログラムが販売されることもあったのではないか? それは「金を払った人しか使えない」という著作権の限定だ。自由であったものをもらってきて、使って作ったものに、限定をかける。それさえ許すのがPublicDomeinというものではなかったのか。
自分が無償で提供したもの有償で販売されることに抵抗を感じるなら、予め明示的に「
Share Alike」を宣言すればよい。
制限する権利と許諾する自由はともに、いますでに作者の手にある。そして、これからもありつづけるべきだと、私は思う。
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おびえている 何を怯えているのだろう、と、自分で思う。たぶん、私は、重鎮ユーザー諸氏の意見のままに、「定説」がさだまってしまうのが怖いのだ。
まだ走り出したばかりの人が、もしかしたら未熟であるかもしれないけれどその人にとって本当に大切な作品の行く末を自身で決める権利を、「あの方たちがおっしゃるのなら」としぶしぶ手放す悲しみを想像する。その作品を選び取った一般ブログのユーザーたちが、それを呆然と見守るさまを想像する。
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re:自分を何かにたとえてみると 角笛を鳴らし、馬具を光らせた馬に乗る人々と轡(くつわ)を並べるくらいなら、追われる側でもよいから、自らの力で野を駈ける狐でありたい。──
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