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ネットで小説、ブログで小説連載サンプル(芥川龍之介)

老いたる素戔嗚尊(四)

 大広間の外へ出ると、須世理姫は肩にかけた領巾ひれを取つて、葦原醜男の手に渡しながら囁くやうにかう云つた。
「蜂の室へ御はひりになつたら、これを三遍御振りなさいまし。さうすると蜂が刺しませんから。」
 葦原醜男は何の事だか、相手の言葉がのみこめなかつた。が、問ひ返す暇もなく、須世理姫は小さな扉を開いて、室の中へ彼を案内した。
 室の中はもうまつ暗であつた。葦原醜男は其処へはひると、手さぐりに彼女を捉へようとした。が、手は僅に彼女の髪へ、指の先が触れたばかりであつた。さうしてその次の瞬間には、あわただしく扉を閉ぢる音が聞えた。
 彼は領巾ひれをたまさぐりながら、茫然ばうぜんと室の中にたたずんでゐた。すると眼が慣れたせゐか、だんだんあたりが思つたより、薄明く見えるやうになつた。
 その薄明りにすかして見ると、室の天井からは幾つとなく、大樽程の蜂の巣が下つてゐた。しかもその又巣のまはりには、彼の腰に下げた高麗剣より、更に一かさ大きい蜂が、何匹も悠々と這ひまはつてゐた。
 彼は思はず身をひるがへして、扉の方へ飛んで行つた。が、いくらしても引いても、扉は開きさうな気色けしきさへなかつた。のみならずその時一匹の蜂は、斜に床の上へ舞ひ下ると、鈍い翅音はおとを起しながら、次第に彼の方へ這ひ寄つて来た。
 余りの事に度を失つた彼は、まだ蜂が足もとまで来ない内に、倉皇とそれを踏み殺さうとした。しかし蜂は其途端に、一層翅音を高くしながら、彼の頭上へ舞上つた。と同時に多くの蜂も、人のけはひに腹を立てたと見えて、まるで風を迎へた火矢のやうに、ばらばらと彼の上へ落ちかかつて来た。……
 須世理姫は広間へ帰つて来ると、壁に差した松明たいまつへ火をともした。火の光は赤々と、菅畳の上に寝ころんだ素戔嗚の姿を照らし出した。
「確に蜂の室へ入れて来たらうな?」
 素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また忌々いまいましさうな声を出した。
「私は御父様の御云ひつけにそむいた事はございません。」
 須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。
「さうか? では勿論これからも、おれの云ひつけは背くまいな?」
 素戔嗚のかう云ふ言葉の中には、皮肉な調子が交つてゐた。須世理姫は頸珠を気にしながら、背くとも背かないとも答へなかつた。
「黙つてゐるのは背く気か?」
「いいえ。――御父様はどうしてそんな――」
「背かない気ならば、云ひ渡す事がある。おれはお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなつた夫を持たねばならぬ。好いか? これだけの事を忘れるな。」
 夜が既にけた後、素戔嗚はいびきをかいてゐたが、須世理姫は独り悄然せうぜんと、広間の窓にりかかりながら、赤い月が音もなく海に沈むのを見守つてゐた。
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